2009年6月30日火曜日

11. 「鉛筆」

全身石鹸洗いのたこぶです。シャンプーも使わない。昔は、シャンプーを使わないと頭が臭くなると言われていたけれど、最近の石鹸は頭を洗っても臭くならないみたい。自分で臭うことはないけれど。石鹸の質も良くなったんだろう。石鹸本来の匂いが、今は気に入ってます。

先日、「田辺聖子文学館」に行った時のこと。昔の作品などの展示物の中に、自筆の原稿というのがいくつかあって、それがぜんぶ鉛筆書きだった。四角い升目が書かれた用紙に、鉛筆で書いているのだね。なんとなく、「自筆」というのは温かみがあるなあ、と思った。それと「鉛筆」っていうのがいいなあと思った。ほら、よく「文豪」と呼ばれる人は、パーカーか何かのふっとい万年筆で書いてるイメージがあって、あれって高級感があるなあなんて思ったりするんだけど。
それにくらべると「鉛筆」は、いかにも庶民のもののような気がする。田辺聖子さんのイメージどおりだなあ。

そう思って展示物を眺めていたら、中に「使い切った鉛筆」というのが箱にいっぱい詰まっているのが展示されていた。2Bだったかの鉛筆を、削って削って、5ミリぐらいになるまで使っているのだね。無駄がないというか。しぶちんというか。ますます「おせいどん」のファンになってしまったよ。

実生活では、鉛筆を使う機会はめっきり減ってしまった。小学校、中学、高校と、授業にはだいたい鉛筆を使っていたなあ。いや、高校になったらもうシャープ・ペンシル略してシャーペンになっていたかも。
なにしろ削る必要がない。いつでも細い線が引けるという点で、シャーペンの登場は衝撃的だった。出始めたころは高級品やったなあ。今は100円程度で買えるけど。

小学校のころはもちろん鉛筆。芯が折れたときのために、スペアで4,5本は筆箱に入っていたかも。たまに友達で、1ダースの鉛筆を筆箱いっぱいに詰め込んでいるヤツもいたけど。そんなに持ってどうするんだろう。よっぽど芯が折れた時、というのがこわかったのか、1ダース揃った鉛筆を見せびらかせたかったのかの、どちらかだろう。

そういえば、何年生かの進級の時、「記念に」といって名前入りの鉛筆を1ダースもらったことがあった。あれは親戚のおばさんだったか、家族の誰かからだったか。覚えてなくてすみません。
一本ずつに名前が彫り込んである。飴色の鉛筆に金文字。かっこよかったような恥ずかしかったような。ああいう「名入れ」は今でもあるんだろうか。

名前を自分で彫る、というのも一時期流行っていた。六角の一部分をナイフで削って、そこにマジックで名前を書くのだ。こうすれば人の鉛筆と紛れることがない。人の鉛筆と紛れて、だからどうなんだと今では思うけど。

変わった鉛筆もいろいろあった。アニメのキャラがデザインされたものは今でもあるなあ。どういうわけかそういう「色もの鉛筆」は、六角ではなく丸かったような覚えがあるなあ。変わったところで三角や四角形の鉛筆もあった。もっともそういう「変わり種」が出てきたのはずっと後の方だけど。そして、あんまり流行らなかったなあ。

鉛筆削りもいろいろあった。一番ポピュラーなのは、ハンドル式の手動鉛筆削りだろう。高級なものになると「削り具合」を調整することができるようなものもあって、ぴんぴんにとがらせて喜んでいたなあ。
電動の鉛筆削りもポピュラーだったけど、音がうるさかった。手動の鉛筆削りは、回しているハンドルに手応えがなくなることで削り終わりのタイミングが分かったけど、電動の鉛筆削りは、鉛筆を突っ込んでいる間は際限なく削り続けるので、なんとなくもったいない気がしたものだ。

手動の極地は、「肥後の守」などのナイフだ。鉛筆削り用に、カミソリの刃を差し替えるタイプのナイフもあった。子どもでもそれで鉛筆を削っていた。いい時代だ。ときどき手がすべって・・・・ということもあったけれど、痛みを伴ってこそ分かることもあるからね。
とはいえ、僕は4人きょうだいの末っ子ということもあって、そういう危ないことはすべて姉兄に頼っていた。削ってほしい時は頼めばいいのだ。きれいに削ってくれる。もちろん自分でもやろうと思うんだけど、どう頑張っても姉兄ほどにはうまく削れなかった。かえって悔しい思いをするだけで終わってしまうので、やっぱり姉兄に頼むことになる。

削り方をよく見ると、まずは角の部分をそぎ落としていき、それからナイフの背に親指を当ててしゅっしゅっと削っていくのである。芯が出てきて、ある程度先端が三角錐らしくなってきたら、最後の仕上げに芯の部分をしゃしゃしゃしゃしゃっととがらせてできあがり。いやあ、実に見事です。
もちろん、鉛筆削りを使う方が簡単で、きれいにできあがるんだけど、この方法を覚えておけば、思ったとおりの太さの芯を作り出すことができる。
というわけで、きっと今でも、美術やデザインで鉛筆を使う人は自分で削っているんだろうなあ。
田辺聖子さんも、あれだけ短くなるまで使うんだから、きっとナイフで(ひょっとしたら肥後の守で)しゃしゃしゃしゃしゃっと削ってるんだろうなあ。

鉛筆がシャーペンよりも温かみを感じるのは、周りを覆っている「木」のせいだろう。鉛筆を削った時のあの木の香り。それだけでなぜか心も落ち着くというものだ。木の香りには、心を落ち着かせる作用があるに違いない。
そういえば、鉛筆削りに溜まった削りかすの臭いを嗅ぐのが好きなヤツも居たなあ。僕も嫌いじゃないけど。なんとなく懐かしい気分になるのはなぜだろう。子どものころ使っていた記憶のせいか。いや、多分もともとの「木」の力なんだろう。

始めに書いたように、鉛筆を使う機会はすっかり減っている。おかげでわが家にある鉛筆はいつまでもなくならない。お尻に消しゴムのついたやつとか、タイガースの模様の入ったやつとか、いろんな鉛筆が引き出しにはいったまま。なんとなくもったいないような気がしている。ちょっとずつでも使ってやりたいなあ。おせいどんほど、使い切ることはできないかもしれないけれど。


だらだらと書いてみました。さて、次は何にしようかな。

6月も終わりに近づいているので、「半年」というのは、どうでしょう。

ではぶたこ、コレ書いて~(^◎^)

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