2009年11月10日火曜日

35.「喜び」

ずいぶんと間があいてしまいました。おかげで自分が前に何をお題にしたのかさえ忘れている始末。面白い企画やと思いつつ書いてるんだけど、忙しくなるとついつい後回しになってしまうのは仕方のないことですなあ。

さて、「喜び」ですが。
この言葉を聞いて思い起こすのは2つのこと。そのどちらも、あまり気持ちのいい物じゃないのです。
ひとつは、お隣の国の「喜び組」。なんかそんな名前の団体がありましたなあ。きれいどころが集まって将軍様のために「喜んで」歌ったり踊ったりしてはるらしい。
まあ人に尽くす、人のために、人に喜んでもらうために何かをするというは、美しい行為だとは思いますけどね。ただその喜び方が、あまり気分のいいものではないのですね。おかげで「喜び」という言葉にまで影響しているという、悲しいつながりです。

もうひとつは「喜びの歌」。ベートーヴェンの第九交響曲ですな。終楽章の歌詞がシラーの「歓喜に寄せて」で、主題が喜びの歌として知られているものですね。
いや、ベートーヴェンは大好きな作曲家だし、第九交響曲も素晴らしい曲だと思いますよ。
でも、合唱をやってると「第九、歌ったりするんでしょう」といろんな人に言われるのがめんどくさいんですね。
さらに、猫も杓子も、というほどではないにせよ、誰でも合唱といえば第九、歓喜の歌、というイメージを持っているのが、なんとも居心地が悪いんですね。わたくし、この歌をまともに歌ったことがないもんで、余計にそう思うのかなあ。それと、大したことのない演奏を何回も聴いたせいもあるでしょうねえ。
プロのオーケストラが(時にアマチュアのオーケストラが)アマチュア合唱団と一緒に演奏したりするんやけど、なかなか名演奏には行き当たらないというのが正直なところ。加えてソリストもいいとなるとほとんど皆無に近いかも。もう数え切れないくらいにCDとかも出てるんでしょうけど、今聴いて感動できるかどうか。中には、歌詞の意味も分からんと歌ってるんちゃうのという(ソロも含めて)演奏もあってねえ。
でも、それを否定するのはやっぱりよくないよなあと思います。歌いたければ歌えばいいんだから。それこそ個人の「歌いたい」という欲望を、歌う喜びを誰も止めることはできないわけやし。「上手じゃないからやめておきなさい」なんていう権利は誰にもない。だからここまでの話は、ただの個人的な愚痴ていどのことです。

ただ、世間的に第九を特別扱いする風潮が(特に年末が近づくと)出てくるのはどうかなあと思います。「世界の平和を願った崇高な曲」確かにそうでしょうけど、ほかにそういう曲がないかといえば、そんなことはないわけでね。
ただ、ミサ曲とかじゃない、つまりは宗教的な束縛のない歌詞、世俗曲でここまで人間を賛美したのは珍しいといえるでしょうけど。あ、天使ケルビムがでてきてたかな。

そんなわけで、単純に「喜び」というと、変な方向に気分が行ってしまうのでした。某居酒屋で、料理を注文すると「はい、喜んで!」と大声で答えられるとどぎまぎしてしまうのも、そんな気持ちがこちらにあるせいかなあ。まああれは、いかにも喜んでいるようで、実はマニュアルで言わされているだけなのだ、というのが分かっているから、余計に違和感を感じてしまうのだろうけど。うわべだけの喜びほどうさんくさいものはないしね。


気分を持ち直して、改めて自分の喜びについて考えてみましょう。
ものすごい、涙を流すような喜びというのは、そうそうあるものではないですね。喜びが幸せと同義と考えてもいいとしても、すごい幸せを感じる時ってなんだろうなあ。

ほんとにつまらないことだけれど。去年ひとり暮らしをしている時、とても殺伐としたニュースがテレビから連日流れていた時があった。どんな内容だったかは覚えていないけれど、他人のことなんか気にしない僕でも、どうして人間はこんなに殺伐とした生き方しかできないんだろうと、暗い気分になってしまった。
そんなとき、お昼ご飯を食べに外に出た。家の近くの手作りコロッケのお店でランチを食べた。その時、最初に出てきたスープを一口飲んで、なんておいしいんだろうって思った。そして、こんなおいしいスープを飲める自分は、なんて幸せなんだろうって思った。こんなおいしいものがこの世の中にあるのに、こんなおいしいスープを作る人がこんな近くに住んでいるのに、どうして世の中は殺伐としているんだろう。そう思って突然、胸がいっぱいになってしまいました。
喜びは、こういう日常の小さなことの積み重ねかなあ、と思います。


さて。
次のお題を考えなければ。
ちょっと前に台風が来た時、停電に備えて用意しました。「ろうそく」でどうでしょう。
ぶたこ、コレ書いて~(^◎^)