2009年6月25日木曜日

5. 「仕事」

僕も勉強は嫌いな方で、結局大学まで行ったけど、卒業することなく現在に至っている。年を追うごとに勉強嫌いになっていったのも同じ。小学校ではまだ「良くできる子」で通っていたけれど(それは4人きょうだいの末っ子という特権があったからに違いないと、今では思う。学校で起こるどんなことも、すでに上3人が体験済みというのは大きい)、中学校からはだんだん並みの子になっていき、高校では中の中。一浪して入った大学では、部活(合唱団)にうつつを抜かしているうちに、勉強嫌いの性格が爆発して、授業はさぼりまくり。
大学は夜間部だったので、昼間はヒマ(部活も夜だった)。ぶらぶらしていたら、知り合いに「働いてみぃひんか」と言われて、アルバイトをしたのが就職の始まり。いわゆる就職活動の経験がないのですね。
しかし、学校でのさぼり癖は仕事にまで及んで、仕事についた始めのころこそまじめに働くものの、遅刻、欠勤の常習者となり、減給、あるいは首になることもしばしば。
何度目かの「おさそい」で(なぜかぶらぶらしていると、誰かが声をかけてくれるのだった。ええ時代やったのかも)勤めたのは本屋。仕事は店番と、月刊定期誌の配達。初めて「免許」なるものを取得。原付バイクにいっぱいの荷物を積んで、店を出て左にハンドルを切ったとたんに横転。幸い擦り傷だけで済んだけど。練習もなしにいきなり30キロ超の荷物を積んで走らせるとは、本屋の店長も無謀だった。

しばらくは本屋に勤めつつ、合唱団の指揮をしつつ、という多忙な日々。
「しんどぉて、かなわんわ」
と愚痴ると、当時合唱団員だったぶたこが、
「ほんなら、やめたら」
その一言で仕事を辞めて、またしばらくぶらぶら。失業保険が切れかけたころ、元合唱団の団員からまたまた「おさそい」。「うちの主人の勤めてる会社でバイトを募集してるけど」
というわけで働き始めたところに、20年勤めることになったのでありました。

こういう人間なので、まともに働いている人には頭が上がらない。どんな小さな仕事でも、まじめに働いている人はえらいなあと思う。仕事の大小に関わらず。地下鉄のホームで掃除をしているおばさん、スーパーでレジを打っている女の人(女の人が多いなあ)、道でチラシを配っているどこかの飲食店の店員さん。どの人も輝いて見える。どんな小さな仕事でも、それがないと社会は成り立たないのではないかと思うからだ。

昔々、僕が若い頃は「社会の歯車のような仕事はしたくない」という人が多かった。今でも「起業家」とかはもてはやされるのかなあ。
でも、思うのであるよ。出来のいい歯車になるのも、悪くないと。「こんなことして、何の役に立つのか?」と思うような仕事、世の中にはいっぱいあるけど(今の僕の仕事も似たり寄ったりかなあ)、どの歯車も、ひとつでも欠けると世の中は回らないのだよ、きっと。


僕は、このように流されて流されて、成り行き任せのままに生きてきて、たまたま仕事にありついて、お金をもらえるようになっているわけで、これはとてもラッキーなことだったといつも思っている。特に今の世の中ではね。
多くの人が将来の夢とかを抱いて、学校で勉強したり就職活動したりするわけだけど、僕はそういう夢みたいなものはあんまりなく(仕事以外の夢はたっぷりあった)、努力とか勉強とかも嫌いだったから、ほんとに今でも生きていられるのは、たまたまが続いているせいだと思う。叶うことなら、これからもたまたまはずっと続いてほしいところだ。

自分の現状には不満はないけれど、夢を実現したひととかを見るとうらやましく思う。それと、自分の仕事に誇りを持っている人は「かっこエエなぁ」と思って、尊敬の眼差しで見てしまう。「ドリームハウス」で、建築家の奇妙なデザインの設計にも「なんじゃこらぁ?」と言いつつ、設計図どおりに仕上げてしまう大工さんの腕前には感動する。枯れかけの桜を再生させるために、努力を惜しまない「桜守」と呼ばれるおじさんは、その努力をたたえられても「植木屋でっさかい」の一言でかわしてしまう。かっこエエなあ。

こうやって考えてみると、僕が感心しているのはどうやら「自分の力で仕事をしている人」みたいだ。才能とか才覚とか、やり手だとかじゃなくて、自分の力で努力している人。大勢のそういう人たちが居て、この世界は動いている。通勤の電車に乗っていて時々思う。ここに居る人みんなで、この社会が成り立っているんだなあ、と。


かっこつけすぎ(^◎^;)

つぎのお題は「エエかっこしぃ」にしよう(^◎^)

ぶたこ、コレ書いて~(^◎^)

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