2010年10月20日水曜日

41.テレビ

テレビ

最近のテレビ番組については、書けることがいっぱいありそうだけど、全部もんくになってしまいそうなので、テレビの機械そのものについて書こうと思う。

初めて自分の家にテレビが来たときのことは思い出せない。生まれたのが昭和34年だから、生まれる前からあったわけではないだろうと思う。小さい頃の写真を見ると、テレビがと一緒に撮ったものもある。当時はテレビは床の間に置いてあって、姿見鏡のようにブラウン管の前に布を垂らしてあった。見ないときには布をかけておくという習慣だったのだ。
あのテレビの大きさはどれくらいだったのだろう。画面の大きさが18インチとか20インチとか言っていたような気もするが、自転車のそれと混同しているかもしれない。今のテレビを見ていると、こんなに大きくはなかったという印象だ。
今と違って四隅は鋭角ではなく、丸みを帯びていた。ブラウン管の技術があまり高くなかったのだろう。そしてブラウン管の前にはさらにカバーのようなものもついていた。パソコンの出はじめの頃、ディスプレイにかぶせていた遮光カバーのようなものである。ブラウン管の光がまぶしすぎないようにとか、ブラウン管に部屋の様子が映り込まないようにするためのものだったと思うが、宣伝文句は「これで画面も広々と見えます」というものだった。画面の四隅を引き伸ばす、レンズのような役目もしていたらしい。
床の間に置いてあるし、普段は布がかかっているしで、今のテレビとはずいぶん様子が違う。今だったら一家団欒の中心に座っているけれど、当時はテレビを見ながら食事、などということは考えられなかった。だいたい放送されている番組も少なかった。昼間は正午のニュースが終われば今で言うワイドショーのようなものがあって、NHKの連続テレビ小説があって(覚えているのは「おはなはん」だ)、そこから夕方までは番組はお休み。新聞のテレビ欄には堂々と「テストパターン」と書いてあった。当時はもちろん白黒なので、今のような色分けされた四角形が並んでいるわけではなく、ひしゃげたドーナツのような形から、上下左右に光の筋のようなものが出ている形だった。音も鳴っていた。それは今と同じような気がする。

一番初めにテレビで見た映像は、化け猫の映画だった。夜の武家屋敷の庭。池の畔で水面を見ている女の後ろ姿。着物を着ていて髪は日本髪。廊下を通りかかった裃を着たお武家さんが不審に思って、「これ、そこで何をしておる」と声をかけると、そおっと振り向いた女の顔が猫になっていた。「にゃあお」と一声鳴いたのが恐ろしかった。映画の題名も、その後何が起こったのかも知らないままだが(怖くてその場から逃げたのだ)、振り返ったその顔はトラウマのように脳裏に焼き付いている。シチュエーションからいって、鍋島藩の「猫化」を映画にしたものだと思う。そういう怪談映画が昔はよくあったけれど、最近はめっきり減ってしまった。ホラーとは違う怪談映画。

昔のテレビは、よく故障もした。マンガのようだけれど、叩けば直るときもあった。テレビの裏蓋を外すと、そこには何本もの真空管が林立していた。壮観だった。時々裏蓋を外して眺めていた。電源をいれると高熱を持つので、電源を入れたままで外さないようにと言われていたが、オレンジ色に揺れる光がみたくて、こっそり電源を入れたままで外して見たこともあった。裏蓋を外すのは簡単で、ネジをいくつか外すだけなのだ。そしてテレビは床の間に置いてあるので、テレビの裏側に回るのも(テレビの後ろはスペース十分なので)子供には簡単だった。
今、「工場萌え」が流行っているが、どこか共通するものがあるのだろう。
時代は変わって、真空管そのものが今や貴重品だ。日本ではすでに製造していない。見かけることもなくなった。昔は真空管アンプを自作するマニアもいて、人気があったのだが。

テレビでもう一つ大事なのは「電波」なのだが、これは前に「ラジオ」の題の時にも書いたなあ。ラジオ以上に、「映像が電波に乗って届く」というのは、改めて考えると驚きだ。その映像も、アナログからデジタルになり、3Dになり。やがて本物と見間違えるような立体映像(3Dを超えるような)ものも出来上がるかもしれない。


さて、次のお題。
途中で出てきて、ちょっと面白いかなと思った。季節外れやけど

「怪談」

で、どないでしょう。

ぶたこ、これ書いて~(^◎^)

2010年9月20日月曜日

40.雲

えらい長いこと書いてなかったから、その存在も忘れられていたことでしょー(^oo^;)
夫婦してお題を出し合って、出されてお題で何か書くという往復エッセイ。

前回たこぶから出されたお題は「雲」でした。
雲といえば水分で、いっぱいかたまったら雨になるんやったなーとか考えてたら、この雲の前に私が出したお題が「雨」やった(^oo^;)戻ってはいけないのだ。

この写真は、2008年にNYに住んでたときにある日一人でセントラルパークをお散歩したときのもの。

雲って時々すごくないですか?
なんていうか、人間業じやないような形ができる。
動物みたいだったり、人間みたいだったり、字を書いてるみたいだったり。
心が疲れたとき、こんな草っぱらに寝転がって、ずーっと雲が流れるのを見てると、なんとなく穏やかな気分になるもんですよね。空は広いなー、雲っておもしろいなーって。

昔、のんちゃん雲にのって・・っていう本があったと思うけど、どんな話やったかなぁ。たこぶが前に読んでいたような。子どもの頃、雲ののれるって信じてなかったですか? 

そういえばこないだ老人ホームに訪問演奏に行ったときに歌った中に、翼をくださいというのがあったけど、自分が空を飛べたらどこに行きたいだろうって考えてみたこともあったなぁ。雲に乗るっていうのは、飛べるという感じと近いかも。乗り物じゃないけど、空の上にあって、で、流れている。・・・ん?あれって本当に流れてるのかな。地球が回ってるから流れてるように見えるだけで、実は雲はじっとしてるとか? 科学系がまったく苦手な私は、全然そういう論理が分かってません(^oo^;)たはははは。科学系だけでなく、歴史や地理もぜんぜんあかんねんけど。たこぶと付き合い始めた頃は、四国の四つの県がどう並んでるかとか、中国地方の県で日本海側はどれかとか、チリは南米かアフリカかとか、何も知らん私にあきれられたもんです(^oo^;)

あらあら、また話が飛んでしまったけど(文字通り(^oo^;))、雲にのって空を飛べたとして、どこにでもいけるって言われたら、どこに行きたいだろう。

宇宙には・・・・いけないよね(^oo^;)
なんか地球の中だけだと、どこに行きたいってないかもなーって、思ってしまって。地球の中なら飛行機とか使ってどこでもいけるやんって急に現実的になってしまいました。あ、でももし、雲に目があって、「こんな人のところに行きたい」って望めるのなら、たとえば、今友だちがいなくて、すごく寂しくて、誰でもいいから話し相手が欲しい人のところに行きたい・・・と思っていけるとしたら、それもいいかなぁ。逆に、すごーく静かで、すごーく平和で、どんな心の波立ちもおさまるようなところ・・・こんなリクエストができるなら、そんなところにも行って見たいかも。そんな風に色々想像すると楽しいね(^oo^)


雲といえば、飛行機に最初乗ったときに感動したのは、飛行機が雲の上を飛ぶと知ったこと。



これって、すごいと思いません? 人間が雲の上にいるなんて。
飛行機に乗るまでは、雲はいつも空のかなたにあるもので、手を伸ばしても届くものではなかったのに、飛行機に乗ったら、届くどころか、突然その上にいるんだもん。雲と空は一組のオブジェクトだと思っていたのに、雲と空の間に飛行機がいるような感じでしょ? うん?ちがう? 空の中に雲も飛行機もいるのん?

まっ、とにかく。
上から眺める雲というのは、下から見るのとは違って、どこか海っぽい。水平線があるみたいに、線ができて。そっか、雲って水やったなと思い出すわけですな。

飛行機から降りて、雲の上を歩くことはできへんけど、思わず歩けるんちゃうかって思ってしまうほど、「面」があって、すごく不思議な感覚になります。

自然ってほんとに不思議。
不思議でおもしろい。

この夏は、ほんまに暑かったけど、これも誰にも予測できなかったことで、人は予測したり分析したりすることに必死になるけど、いつもそれを裏切って舌を出したり、ときには牙をむく自然がいるんですね。絶対勝てない、絶対理解しきれない、こういう大きなものがあるから、人間は最悪に傲慢にはなれないのかもしれへんなぁ。そういう存在って必要なんかも。ここ最近、政治関係のきたない、計算ずくのやり取りを見るにつけ、なんかそんなことを思ったりしたのでした。

またまた全然まとまってないけど、「雲」はこれで置いておこう。

次のお題は何にしようかなー。
ずっと前、確か「ラジオ」というお題は出したけど、これはまだやったな。最近のわが家の懸案事項。

「テレビ」これでいきましょう。

たこぶ、コレ書いて~(^oo^)

2010年4月28日水曜日

39.雨

最近本当にうっとうしい日が続いている。まさにこのお題にぴったりかも。先日行ってきた長崎も、ほぼ雨だったし。なかなか暖かくならない、ぱあっと春になりきれない、文字通りのぐずついた日々。今日の野球も中止になったし。いつになったら本格的な春になるのやら。と思っているうちに4月も終わりに近づいてきているのだけれど。

小学生の時、理科のテストで「暑いとき、寒いとき」という問題が出た。風が強い時→寒い、などと答えるものだったと思う。その中で「晴れ」と「雨」というのがあって、クラスの殆どが「晴れ」なら「暑い」、「雨」なら「寒い」と答えたら、答え合わせの時に先生が、「雨の時はむしむしして暑いでしょう」と言ったので、クラス中が驚いた。もちろん先生の答えは絶対なので、「雨の時は暑くて、晴れたときは寒いのだ」と思い込もうとした。
だが、天気の良し悪しは、そのまま気温の高低には結びつかない。「放射冷却現象」があれば晴れたときには気温は下がるが、普通に日が射していたら気温は上がるだろう。雨も、今日のように冷たい雨もあれば、夏場の蒸し暑い雨もある。どちらもありうるのだ。画一的な答えに押し込めようというのがそもそも間違っていたのだろう。


雨はひとを感傷的にするものでもある。晴れを歌った歌より雨を歌った歌のほうがきっと多いだろう。数えたことはないけれど。「雨の~」という題名ならすぐに思いつく。「雨の御堂筋」「雨のプレリュード」そのものズバリの「雨」もあるなあ。三善英史の「雨」は、雨が降るとつい口をついて出てくるくらいだ。これが「晴れ」になると、とんと思いつかない。「晴れたらいいね」ぐらいか。みんなスカッとした気分になるよりも、多少センチメンタルな気分に浸る方が好きなんだろう。


雨が降らないと地面は干上がってしまうので、これは天の恵みの一つだと思うけれど、雨の日に出かけるのはやはり憂鬱なものだ。なんといっても傘を持っていかないといけない。いつもより荷物が一つ多いというだけで憂鬱だ。電車の中で本を読もうと思ってもじゃまになる。第一、本が濡れやしないかと気になる。図書館で借りた本ならなおさらだ。雨の日は電車で読書、というのは我慢しなければならない。しかし電車に乗ってみると、混んでいる車内にも関わらず、雨の日にも関わらず、本を広げている人が何にんかいる。そこまでして読みたいものなのか。いや、気持ちは分かるけど。読めるものなら読みたい。でも周りに気を使いながら、本そのものに気を使いながら読むのはなあ。


多少とりとめのない話になってしまったけれど、まあこれもいつものこと。
次のお題は・・・・
「雨」ときたから「雲」としましょうか。

ぶたこ、コレ書いて~(^◎^)

2010年4月15日木曜日

38. 波

寒いですねー。もう春なのに。造幣局の通り抜けさえ昨日から始まったというのに。ってことで、寒い中サンディで買い物して、国産高いからNZから来たカボチャを買ってきて、ラジオ聴きながらコトコト煮込んでます。

旦那さんのたこぶとの往復エッセィ、最近すっかり頻度が減ってきていますが。
やめるのももったいない。楽しいから。

前回、ぞうさんというお題から、しっかり自分の好物のバナナに持っていき、バンコクでの旅の思い出を語ってくれたのはなかなか面白かった。
その楽しい思い出が詰まったバンコクが今、えらいことになってますね。政治的な対立は昔からあったことで、いざとなったら王様が出てきて、仲介してくれて・・・というのがパターンだったと思うんだけど、最近、王様はすっかり年をとられて、体調も思わしくないみたい。これで、もし王様が亡くなったりしたら、この国はどうなるんだろうって、自分の国じゃないけど心配。微笑みの国といわれるぐらい平和のイメージが強いけど、貧富の差は激しくて、くすぶった怒りみたいなものが貧しい地域の人たちにはずっとあったのかもしれないね。デモや集会があっても、あんなに多くの人が亡くなるような騒動は、今までならなかったし、なるような気がしなかったのに。本当に平和って大切やなぁ。


さて、たこぶから先月もらったお題は「波」です。

波、かぁ。

波という文字を見て、最初に浮かんだのは、なぜかサザエさんのお父さん、波平だったりします(^oo^;)最近見てないなぁ、サザエさん。私は家族が少なかったので、ああいう賑やかな家庭にあこがれてました。いつも誰かがイタズラしたり、もめごとを起こしたり、失敗したり、ケンカしたり・・・と、大変そうでもあるんだけど、そういう大変さを味わってみたいなって幼い頃は思ってました。でも、大人になった今は、たこぶと二人のわりと静かめの生活が気に入ってます。時々は賑やかでもいいけど、自分以外に一人しかいないと、相手の言うことも聞きたいと思うし、自分の言うことも聞いてもらえる。向かい合った関係もいいのかなって。子どものときは、大家族にいつかなりたいなぁって思ってたけど、予定は未定。人生ってどうなるか分からないですな。

まっ、波平さんの話はええとして(^oo^;)

正攻法でいきますとぉ、波は水でおきますな。海やら、川やらで、さざ波が起きます。それが小波になり、大波になり、うねりになり、ときどき津波になり人間に襲い掛かることもある。

こうやって書いてみて、「感性」という言葉が浮かんできました。小さな変化や起こっていることに敏感でありたいと思います。大波や津波になってからだと、誰にでも分かるけど、その前の状態。ほんの小さなサインしか出ていないときにも、感じらる人でありたいなと。人の哀しみであったり、助けを求めるサインであったり。喜びや幸せを分かち合いたいと思ってる人の表情だったり。それから、世の中の情報。表に出ていることが氷山の一角であっても、そこに隠れる根っこの部分や、可能性の部分まで読み取れたり、理解できる人でありたいなと思います。

こう書いてきて、結局、そういう人であるためには、経験と学びが必要なんでしょうね。持って生まれた感性だけではダメで、それを育てないといけない。私は育てられているのかな。

自分の中に起きている小さな波をいい意味で大きく育てられているのかな。小さな疑問をほおっておかないで、解決すべく何かアクションを起こしているのかな。小さな夢をほおっておかないで、かなえるべく何とか前に進んでいるのかな。小さな不安をほおっておかないで、確かめるべく動いているのかな。そして、小さな疲れの波が生まれているとき、それを癒すべく時にはスイッチを少しの間オフにする勇気があるのかな。

波、という言葉は、私にとっては、無、から生まれる水のかすかな動き、そこからどんどん育って、大きなうねりになっていく、そんな変化を現す響きを持っているようです。

波といえば、電波もありますね。この春でずっと聴いていた番組が終わるとき、残念だったので思わずメールしたら、昨日、その番組からハガキが届いていました。ホストの二人の写真とメツセージが添えられていて、なんか、心が通じ合ったみたいで、そんな小さなことが嬉しかったな。
ってことで、大好きなラジオ・・・をお題にしようと思ったら、前にもうやってたな(^oo^;)

何にしよう。寒い雨が降ってるし・・・。
よし、素直に水つながりで「雨」にしよう!
次のお題は「雨」でお願いします。

たこぶ、コレ書いて~(^oo^)

2010年3月8日月曜日

37.ぞうさん

2月をすっ飛ばしてしまったなあ。お題は「ぞうさん」か。

どういうわけだか「ぞう」とは言わずに、「ぞうさん」と、敬称をつけてしまう。これはなぜ。
人間は自分を基準に物事を考える動物らしい。だから自分より体の大きなものには「さん」をつける癖があるようだ。
「きりんさん」「かばさん」「しかさん」「くまさん」
体が人間に近づいてくると、あいまいにあってくる。上記の中では、
「しかくん」でも「くまくん」でもよさそうだ。もちろん「さん」づけでもいいんだけど。「かえるくん」に「みみずくん」。あ、でも「あり」は「ありさん」やなあ。考えてみれば「さん」付けのほうが多いかも。とりあえず「さん」をつけておけば大丈夫、という気もする。
「かえるさん」「みみずさん」「とんぼさん」「ちょうちょさん」「はちさん」「はえさん」「かさん」「くもさん」
こういう敬称をつけるからには、それなりの尊敬の念があるはずだ。生きているものについて、どんな生き物にでも尊敬の念を持つということは大事なことだろう。それが「うしさん」や「ぶたさん」のように、食料として人間に貢献してくれているものも含めて。

さて「ぞうさん」とくれば、次に連想するのはなぜか「バナナ」である。タイでみかけた街頭のぞうさんは、えさ代を払うとバナナを食べさせることが出来た。わざわざ食べさせるためにえさ代を払うなんて、おかしな話だが、それでも自分の手からバナナを食べさせるということに、なんとなく喜びを感じてしまう。あんな大きな動物が、この小さな手から受け取る小さなバナナで満足してくれることの喜び。どこか「手なずけている」という喜び。そんな人間のエラそうなところが見えてしまうのだが。
実際は、ぞうさんはいつもバナナを食べているわけでもなく、バナナが主食なわけでもなさそうだ。動物園で見かけるえさは、大きな草の束だ。あれは何の草なんだろう。ヨシかササに見えるのだけれど。つまりはバナナみたいなちょっとしたものだけでは、あの巨体には栄養が足りないんだと思う。もっと大量に食べなければ。そのためには大量にあるものを主食にしなければ。もりもり食べて、ぐんぐん育つ。

もうひとつ「ぞうさん」とくれば、長い鼻である。地球上の動物で、あの鼻を持っているのはぞうさんだけだ。それを器用に使いこなす機能を持っているのも、ぞうさんだけだ。あの鼻でえさをつかんだり握手をしたりできる(できるのか)のは、ぞうさんだけだ。あの鼻が、動物なんだけど、手はないんだけど、なぜか親近感を持たせる大きな役割を持っているような気がする。大きいけれどかわいい。こんな動物は、ほかにはそういない。大きな動物はただ大きいだけ、その大きさに圧倒されるということはあるけれど、その上で「かわいい」と思えるのは、ぞうさんだけだ。ぞうさんばんざい。


久しぶりに書くと、ただ印象を並べただけの陳腐な文章になってしまった。ま、こんなのでもいいでしょう。
さて、次のお題。
チリで地震が起こって、日本にまで津波が押し寄せてきた。
というわけで「波」としましょう

ぶたこ、コレ書いて~(^◎^)

2010年1月3日日曜日

36. ろうそく

去年から始めたぶたこぶの往復エッセイ。たこぶから前回もらった御題は「ろうそく」でした。


ろうそく
ともしび
ほのお
ゆらゆら
ゆれる
こころ
うちがわ
ひめる
きもち
こめる
おもい
にもつ
わける
いたみ
やわらぐ
いやし
おんがく
うた
ことば
つたえる
あいて
じぶん
こどく
ひとり
みんな
あつまる
ぱーてぃ
たんじょうび
ろうそく


ってことで、連想ゲームでいってみました(^oo^)
エッセイになってないって?
いや、これでもなかなか時間かかりましてん。
いってもどってくるまでに。
お後がよろしいようで~。

次のお題は何にしようかなー。
さっき、詩人のまどみちおさんを特集したドキュメントを見て、二人して感動してしまいました。
そんなわけでリクエストは「ぞうさん」にします。たこぶ、コレ書いて~(^oo^)
今年もよろしくねー(^oo^)/~~~

2009年11月10日火曜日

35.「喜び」

ずいぶんと間があいてしまいました。おかげで自分が前に何をお題にしたのかさえ忘れている始末。面白い企画やと思いつつ書いてるんだけど、忙しくなるとついつい後回しになってしまうのは仕方のないことですなあ。

さて、「喜び」ですが。
この言葉を聞いて思い起こすのは2つのこと。そのどちらも、あまり気持ちのいい物じゃないのです。
ひとつは、お隣の国の「喜び組」。なんかそんな名前の団体がありましたなあ。きれいどころが集まって将軍様のために「喜んで」歌ったり踊ったりしてはるらしい。
まあ人に尽くす、人のために、人に喜んでもらうために何かをするというは、美しい行為だとは思いますけどね。ただその喜び方が、あまり気分のいいものではないのですね。おかげで「喜び」という言葉にまで影響しているという、悲しいつながりです。

もうひとつは「喜びの歌」。ベートーヴェンの第九交響曲ですな。終楽章の歌詞がシラーの「歓喜に寄せて」で、主題が喜びの歌として知られているものですね。
いや、ベートーヴェンは大好きな作曲家だし、第九交響曲も素晴らしい曲だと思いますよ。
でも、合唱をやってると「第九、歌ったりするんでしょう」といろんな人に言われるのがめんどくさいんですね。
さらに、猫も杓子も、というほどではないにせよ、誰でも合唱といえば第九、歓喜の歌、というイメージを持っているのが、なんとも居心地が悪いんですね。わたくし、この歌をまともに歌ったことがないもんで、余計にそう思うのかなあ。それと、大したことのない演奏を何回も聴いたせいもあるでしょうねえ。
プロのオーケストラが(時にアマチュアのオーケストラが)アマチュア合唱団と一緒に演奏したりするんやけど、なかなか名演奏には行き当たらないというのが正直なところ。加えてソリストもいいとなるとほとんど皆無に近いかも。もう数え切れないくらいにCDとかも出てるんでしょうけど、今聴いて感動できるかどうか。中には、歌詞の意味も分からんと歌ってるんちゃうのという(ソロも含めて)演奏もあってねえ。
でも、それを否定するのはやっぱりよくないよなあと思います。歌いたければ歌えばいいんだから。それこそ個人の「歌いたい」という欲望を、歌う喜びを誰も止めることはできないわけやし。「上手じゃないからやめておきなさい」なんていう権利は誰にもない。だからここまでの話は、ただの個人的な愚痴ていどのことです。

ただ、世間的に第九を特別扱いする風潮が(特に年末が近づくと)出てくるのはどうかなあと思います。「世界の平和を願った崇高な曲」確かにそうでしょうけど、ほかにそういう曲がないかといえば、そんなことはないわけでね。
ただ、ミサ曲とかじゃない、つまりは宗教的な束縛のない歌詞、世俗曲でここまで人間を賛美したのは珍しいといえるでしょうけど。あ、天使ケルビムがでてきてたかな。

そんなわけで、単純に「喜び」というと、変な方向に気分が行ってしまうのでした。某居酒屋で、料理を注文すると「はい、喜んで!」と大声で答えられるとどぎまぎしてしまうのも、そんな気持ちがこちらにあるせいかなあ。まああれは、いかにも喜んでいるようで、実はマニュアルで言わされているだけなのだ、というのが分かっているから、余計に違和感を感じてしまうのだろうけど。うわべだけの喜びほどうさんくさいものはないしね。


気分を持ち直して、改めて自分の喜びについて考えてみましょう。
ものすごい、涙を流すような喜びというのは、そうそうあるものではないですね。喜びが幸せと同義と考えてもいいとしても、すごい幸せを感じる時ってなんだろうなあ。

ほんとにつまらないことだけれど。去年ひとり暮らしをしている時、とても殺伐としたニュースがテレビから連日流れていた時があった。どんな内容だったかは覚えていないけれど、他人のことなんか気にしない僕でも、どうして人間はこんなに殺伐とした生き方しかできないんだろうと、暗い気分になってしまった。
そんなとき、お昼ご飯を食べに外に出た。家の近くの手作りコロッケのお店でランチを食べた。その時、最初に出てきたスープを一口飲んで、なんておいしいんだろうって思った。そして、こんなおいしいスープを飲める自分は、なんて幸せなんだろうって思った。こんなおいしいものがこの世の中にあるのに、こんなおいしいスープを作る人がこんな近くに住んでいるのに、どうして世の中は殺伐としているんだろう。そう思って突然、胸がいっぱいになってしまいました。
喜びは、こういう日常の小さなことの積み重ねかなあ、と思います。


さて。
次のお題を考えなければ。
ちょっと前に台風が来た時、停電に備えて用意しました。「ろうそく」でどうでしょう。
ぶたこ、コレ書いて~(^◎^)

2009年10月15日木曜日

34. 「予感」

帰国してすぐは、毎日やることないなー、妙にヒマやなー、どうしよーとか言ってた私ですが、最近、なんとなくほぼ毎日予定が詰まってくるようになりました。フルタイムで仕事しているわけじゃないのに、なんだか気持ち的にバタバタしとります。

で、またまたしばらく寝かせていました、たこぶとの交換エッセイ。今回、たこぶが投げてくれたお題は「予感」です。予感ですか。予感ねー。霊感でもない。ヤマ感でもない。第六感とはまた違うよね。

予感。たこぶ的にいうと、私は予感が当たりやすいタイプみたい。特に、野球見てるとき、私が「次、ホームランっ」とかいって、本当にホームランが出たときがあったり、たこぶが「次は打つで(^◎^)」といったときに、私が「いや、三振!」となんか感じる。それが当たっていたりすることも多い。これ、「多い」ってだけで、何も確率的に証明されていないし、はずれてることも同じように「多い」って気がするけど、たこぶはなぜか私の予感が「当たる」と信じているみたい。

たぶん、その一番大きな原因は、新庄やろなぁ。
阪神からメジャーにいって、日本ハムで現役生活を終えた、あの新庄選手のことです。
まだ阪神にいた頃やったか、ある試合で、新庄が敬遠ボールをヒットしたことがあったんです。そのとき、私たちテレビの前でライブで見てました。で、新庄の打席が来て、敬遠。キャッチャーが立ち上がって、横にずれた。

なんか、私は、腹が立ってた。勝負してーやーって。で、「新庄、打てぇぇぇぇ!!」と叫びましてん(^oo^;) そしたらたこぶが、完全にわたくしをバカにしたように「ナニいうてんの? 敬遠やのに、打つわけないやん(^◎^)」とせせら笑いまして。私は、「そんなことないで、打てるかもしれん。新庄、まけるなー、敬遠なんかくそくらえやー、打ってまえーーー」と叫び続けてまして。

次の瞬間です。たこぶの目がテンになりました。
新庄が、バットを思い切りのばして、フォームも何もあったもんちゃう、野球の基本も関係ないっとばかりに、バットを思い切り振り回しましてん。そしたら、そのバットがボールに当たった! で、しかも、ヒットぉぉぉ!!

これに、たこぶは、ものすごく驚いたようで(^oo^;) 私は勝ち誇ったように、「ほれほれほれ、見てみぃなー、私のいうたとおりになったやろ? 新庄うったやろ? でへへへへへーー」というわけです。

それからでしょうな。たこぶが、「ぶたこの予感、恐るべし」と思い始めたのは。

何か印象的なこと、大きな予感が一つ当たると、「こいつの予感は当たるのだ」と、思い込ませることができる、ええ例なのかもしれないです。


私自身、自分の予感が当たるかというと、ようわかりません。
っていうか、予感とは違うけど、目の前にいる人が、何が欲しいのか、何を考えているのかを「感じる」ことには、もしかしたら敏感な方かもしれんなーとは、思ったことがあります。もちろんはずれることもあるし、鈍感になることもあるけど。

学生時代アルバイトしていた飲食店で、お客さんがタバコを吸いたいなーって思ったその瞬間に灰皿を出していたり、何かこぼした瞬間におしぼりを出していたり、メニューが見たいなと、目をやった瞬間に、ハイっとメニューを差し出したり。このアルバイトで培われたものかとも思っていたけど、考えてみたら、もっと昔から来ているのかも。

子供の頃から、自分の両親や兄弟と暮らすことがほとんどなくて、誰か他の家族の中に入れてもらって暮らしてきた私。いってみれば、他人の中で育ってきたともいえるわけです。とても大切にしてくれたけど。なんというか、異文化の中で暮らしてたともいえるのかな。というか、自分自身の文化がなかった。自分の直接の両親や兄弟だけと、大きくなるまで暮らし続けると、自分たちだけのルールや習慣ってのができて、それがその家を出るまで続くけど、私は数年ごとにその「文化」が変化してまして。高知に住んでたとき、兵庫、大阪、そして自分の母親と。自分の母親と暮らしはじめたときでさえ、その前に暮らしていたのは一歳の頃で、それ以来になるわけだから、はじめて一緒に暮らすのとほとんど同じ。新しい「文化」がそこにありました。

暮らす家族が変わるたびに、新しい環境になじまなくてはいけなくて、空気を感じなくてはいけなくて、うまくやっていきたいと子供心に思うんでしょうね。きっと。それから、家族以外の友人や先生たちとの関係も、その一時的な家族と同じように大切だった。それで、周りで起きていることや、周りの人たちが思っていることを、感じよう、わかろうと必死でしていたのかもしれないです。

たこぶと結婚してから、自分の家族が初めてできたような気持ちがしています。結婚して18年。ずーっと同じ人と、しかも二人だけで暮らしてきているから、二人だけのルールや習慣ができて、それが何も言わなくても続いていく。これが快適だったりするんですね。だから、なにごとも敏感にかんじる必要はなくなって、楽になりました。っていうか、楽になって初めて、あー楽やなーって分かったという感じかな。

子供の頃の私は、一生懸命感じようとしていたんだなって、今になって分かるわけです。
だから、この人はこれからこんなことするんじゃないかな、こんなことが起きるんじゃないかな、こんなことを思ってるんじゃないかなって、それを感じようとするから、それが「予感」につながることも、時々あるのかもしれないですね。

こうやって、自分で整理して考えると、ほんと、人間って面白いですね。元々持ってる性格もあるけど、環境によって作られるものも大きいのだなぁと。

で、自分の子供時代を「かわいそうに・・・」と思うかというと、そうでもないです。
この「感じよう」とすることは、語学をやっていても、あるいは音楽をやっていても、おおいに役立っていると思うから。語学でも、自分が知っている言葉や表現は限られているし、知っている言葉でもいろんな意味合いが多方面にある。そういう足りない部分を補うのは、相手が何を考えているのか「感じる」ことなのかもしれないです。それによって、コミュニケーションがスムーズに行くような気がするんですね。相手の気持ちに共感することができれば、そんなに流暢に離せなくても、通じることってありますもんね。音楽でも同じで、隣で歌ってる人がどうしているのか感じてあげると、ハーモニーもうまくいったりするし、前で引っぱっている指揮者がどう思っているのかを感じることで、音楽が流れていく。


こう書いていくと「予感」というのは、ある意味、周りで起きていることにアンテナを張って、「感じた」ことのデータをもとに打ち出す計算結果に近いのかもしれないなーって思ってきました。どうかな?>たこぶ。

もしかしたら、まったく何の根拠もなしに、ふと感じる「予感」みたいなものもあるのかもしれないけど。そういうのがあったら、思い出したら、また書いてみたいと思います。


ってことで、予感の話はおしまい。
次のたこぶに書いてもらうお題、何にしようかなー。

うーんと・・・・。基本的な言葉にしよう。たこぶがどう思うか興味ある。
「喜び」 これにします。いろんな「喜び」があると思うし。

んじゃ、たこぶ、コレ書いて~(^oo^)